アララト山の頂上から人類が目指すもの

 バベルの塔の話をご存知だろうか?

 遥か昔、世界を呑み込む大洪水をノアの方舟で生き延びた人類は、もう散り散りになるのをやめて、みんなで一つの土地に住み、素晴らしい国を作り、その地に天まで届く塔を建てようとした。それを神様が嫌い、人々の話す言葉をバラバラの言語に変えてしまった。という話だ。天まで届く塔を建てる、という人の傲慢さを神様は許さなかったからだと言われている。果たしてそうだろうか?

 

 白人による黒人差別

今、“Black Lives Matter”とアメリカのあちこちでこの差別に対するデモが行われている

 

 こんな話がある

「白人は黒人のアルビノである」

動物番組で見たことはないだろうか?色素が抜けて真っ白なキリンやシマウマ、ライオン等の動物を。あれがアルビノだ。

 アフリカで発生したホモサピエンスは、おそらく今のアフリカ人のような肌の色をしていたのだろう。その中に色素の抜けた真っ白い肌を持つ者が突然生まれたとしたら、人々はどんな反応を示しただろう。出生時に殺されてしまったかもしれない。もし生かされたとしても、成長する過程で多くの迫害に遭ったかもしれない。

「黒人のアルビノである白人は、黒人にいじめられていた。」

          ↓

「白人の遺伝子はそれを覚えていて、黒人をいじめたくなる」

という話だ。もちろん科学的には立証されていない。

 アフリカで発生した人類の中には、世界各地に向かってアフリカ大陸を飛び出していった人達がたくさんいた。その人達の中に、いじめや迫害を理由にアフリカ大陸を出た人達がいたとしても不思議ではない。それが白人かどうかは別として。

 

 

 白人の歴史は侵略戦争の繰り返しだ。古くは相手は黒人ではなく、白人同士だった。民族の違い、宗教の違い、思想の違い、身分の違い…

 遠くの日本人から見れば、おんなじ白人同士、同じような一神教同士の争いにしか見えなかったりする。

 中国でも何千年も前から国同士の争いが絶えず、幾つもの民族が絶え、幾つもの国が生まれては消えていった。

 朝鮮半島でも似たようなことが起こっている。

世界各地で…と思われがちだ。

 

 日本において、縄文期には争い事が無かったのではないか?という研究がある。弥生期の人骨には矢尻の刺さった死体などが発掘されたりしているが、縄文期の人骨からはそういった形跡が見られない、というのだ。弥生人縄文人より後に中国大陸からやってきた人達だとされている。

 ヨーロッパの大航海時代に発見された南北アメリカ大陸の先住民も比較的穏やかに、暮らしていたのではないだろうか?高度な文明を持っていたところもあるようだが、武器などではヨーロッパ人には到底敵わなかった訳だから、ヨーロッパ人ほど戦争慣れしていなかったとも言えるわけだ。

 

 これはアフリカ大陸を出た時期の違いではないかと私は思っている。比較的早い段階でアフリカ大陸を出た縄文人などの各地の先住民達は争いを好まず、一方でアフリカ大陸内で分派し成長していく間に争いなどが増えていき、そういった気性の人達が後から世界へ出ていったのではないかと思うのだ。実際に、縄文人などの遺伝子グループのほうが、白人などの遺伝子グループより早くアフリカ大陸を出たのは分かっている。

 

 人類の進歩と共に戦争がある、みたいなことが言われたりするが、争いを好む人達と好まない人達がいて、前者の領土拡大と共にその思想や武器の開発技術などが各地に広まっていった為に、後者まで一緒くたにされてしまっているというのが現実ではないかと思うのだ。実際には争いを好まない人達もたくさんいる。戦争を人類全体のせいにされてはたまったものではない、といったところではないだろうか。

 

 長い人類の歴史の中で、世界各地には様々な遺恨が残っている。最初のアルビノ説などの遺伝子の記憶は置いておいたとしても、滅ぼされた民族や、追いやられた民族、奴隷にされていた人達、被害国、戦勝国にも、未だ争っている国々にも、ありとあらゆる遺恨が残っている。「あの人達は嫌い」「あいつらを許すことは出来ない」「私達は忘れない」そういう思いはそう簡単に消せるものではないのだろう。それでも争いを好まない人達は言う。「争いは何も生まない」「過去に縛られては未来に進めない」「人類みな兄弟」と。争いを好まない側の「平和」も、ある種押しつけになることもある。

 

 

 多様性を認める。

 最近では白人のスタイルのいいモデルばかりを集めるファッションショーが開催を中止するニュースもあった。プラスサイズモデルや、ドラァグクイーンなんて人達も現れた。性別には種類が増え、MANとWOMANのほかにLGBTQなどまだまだ増えそうだ。肌の色、宗教、思想、人種、言語、性別、いろいろな違う人達がいることを認めようとする世界の動き。でも…

 「あの人は苦手」「あそこの家のお父さんちょっと怖そう」「あの人はいいけど、あの人は嫌い」こういう好き嫌いや、苦手意識や、印象を持つことを、下手したら差別だと言われかねないのも今の現状だ。ニンジンが嫌いな人もいる。虫が苦手な人もいる。好きや嫌いも多様性ではないのだろうか?日本人からしたら、あのごっつい黒人さん達はやっぱり怖そうに思えてしまうのが自然だと思うし、それは、漁師や土木作業員のお父さんはサラリーマン家庭の子供にとっては怖そうに見えたりするのと同じようなことにも思うのだが。

 

 

 バベルの塔を人間が建てようとしたとき、神様はなぜ人々の言語をバラバラにしたのか?それは天まで届くようなものを作ることの傲慢さを責めたのではないと思う。だったら、ロケットで人工衛星を打ち上げることも、月に行くことも傲慢だし、何より戦争をして人間同士殺し合うことこそ傲慢極まりないことだと思う。

 神様は、人々が単一であろうとしたことを嫌ったんじゃないだろうか?大洪水を免れた人類はごく少数だった。これからは散り散りにならずにみんな一緒に暮らそう、そう思ったのだろう。幸せな国を作り、その象徴としてバベルの塔を作ろうとした。単一であろうとした。その象徴がバベルの塔。神様はそれを私達のことを思って止めさせた。種の保存という意味でも単一性は危険である。またその単一性は、前出のアルビノのような者が生まれたときに排除の方向へと動き易い。だからこそ神様は、また洪水でその国を、その塔を押し流してしまうのではなく、話す言語をバラバラにした。多様性を持たせる為に。単一では危険だと。

 バベルの塔の話は、神話の類である。実話かどうかはもちろん怪しい。だが、そこから読み取るべき教訓はある。この話が示すのは、「人類の傲慢さへの警鐘」ではなく「多様性を持て」なのだと思うのだ。

 

 私達人類にはいろんな人達がいて、いろんな歴史を持ち、いろんな感情を持っている。残念ながら、「嫌い」や「苦手」、「許さない」と言った感情を持っていることも多々ある。でもそれも多様性であり、それぞれの歴史の上に成り立っている感情でもある。その感情を無視して「過去は水に流してみんなで手を取り合って」などと言うのもまた、多様性を認めていないことにならないだろうか?

 “Black Lives Matter”と黒人達は訴える。同時に、ある白人が「黒人は嫌いだ」と思う。どちらも否定はできない。個人の思いだから。どちらの思いもまた多様性だ。けれど、「黒人は嫌いだ」と思う警官が黒人を殺してはいけない。それが白人に限らず、どんな人種や思想の持ち主でも、嫌いだから殺すはダメだ。もちろん黒人が白人を殺すのもダメだ。結局はそういう単純なことのように思う。

 誰を嫌いでなくなるか、苦手でなくなるか、いつか許せる日が来るかは、個々による。何かの制度が設けられたり、誰かが罰せられたりすることで、みんなが過去を洗い流せる訳じゃない。みんなが許せる訳じゃない。最後は個人個人なのだと思う。白人が…。黒人が…。そう言っている間は黒人は黒人で単一化し、白人は白人で単一化してしまう。多様性が消えてしまうのだ。

 

 多様性とは、一人一人の違いのこと。人種、宗教、言語、性別、肌の色、思想などの枠組みに捉われずに個人個人を認め合うこと。

多様性を認める社会

とは、もっともっと深く緻密で、そしておおらかな社会なのだろう

 

 フレーゲルのバベルの塔を眺めながら、そんなことを思っている。

 

Yes,we can!!

 すっかりご無沙汰してしまった(ーー;)

自粛期間中に風邪を患い、ゆっくりしては早寝早起き、三度の食事。規則正しい生活を送りながらも微熱が下がらないまま3週間。どうやらコロナではないようなので、自粛明けと共に、病院へ。副鼻腔炎と診断され薬を処方され、飲み始めたところである。

自粛が明けた施設によっては検温もされるようなので、コロナと勘違いされないように早いとこ治ってくれることを願っている今日この頃である。

 

 さて、「歴史認識」という言葉がある。我が国においても隣国との歴史認識の差でいくつかの問題を抱えている。歴史とは過去にあったことなので、資料があるかないか、それがどういった立場で書かれたものか、信憑性はどうかなどに加え、双方が納得するかという微妙な部分が最後にのし掛かる。築き上げ、積み重ねてきた歴史の上で今生きる私達がどう解釈し、どう解決していくかはとても重要な課題だと思う。だからこそ、もっと大切に、もっと真剣に過去と向き合う必要性を感じている。

 

 アメリカ大陸は誰が発見したのか?コロンブスでもなければ、バイキングでもない。ヨーロッパ人が発見する遥か何千年も前から、人類は南北アメリカ大陸に到達し生活していた。人類でアメリカ大陸を始めて発見したのは、原住民の祖先である。コロンブスの発見により、白人達が入植し、黒人を奴隷とし、原住民を虐殺した。それだけに留まらず、今度はヨーロッパ本土からの独立を勝ち取り、自分達の国にしてしまった。その後の内戦も白人達の都合によるものだ。

 勝手に人の土地にやってきて、自分達の国と称し、内輪揉めで土地を荒らしたのは、全て白人である。

 

 これは世界が認める事実である。

 

 一方でまた、白人は原住民や黒人に対して散々なことをしてきたが、その上で、経済的発展やライフラインの拡充も、奴隷の解放も、法律上の差別の撤廃も行われて、それを原住民や黒人達も享受してきたこともまた歴史という事実である。

 アメリカという国で生まれ、その国民として生活しているという現実もまた、歴史の上に成り立っているのである。

 

 「黒人の命も大切だ」と黒人達は言う。

 

 けれど、これでは黒人を差別する人達のやり方と変わらない。結局は白人と黒人を分けて考えているのだから。

 考えるべきは「同じアメリカ人として、アメリカをどういう国にしていきたいか」という視点ではないだろうか?

 

 歴史の上でアメリカという国は、誕生の経緯から、複雑な民族構成と、様々な差別と争いとを経て今に至っている。その中で、「アメリカ人」は幾多の困難を乗り越えて、240年のこの国の歴史を作ってきたのではなかったか?白人とか黒人とかではなく、「アメリカ人」というアイデンティティーで捉えた時、何色の人間が何色の人間に殺されたかではなく、誰が誰に殺されたのか?がより重要になってくるだろうし、肌が何色だろうが、人が一人亡くなったことにもっとちゃんと向き合えるのではないかと思うのだ。

 

 アメリカ人は「American」。アメリカ人はこれを解決できる力を持っている。末尾に「-can」を持っている国民だから。いま一度アメリカ人としての自覚と誇りを持って、この問題にしっかりと向き合ってもらいたいものである。

 

 Yes,we can!!  とはバラク・オバマ氏の言葉である。

さて今日はエヴァでも観ようか

 みなさんは朝型だろうか?夜型だろうか?そもそも、朝型、夜型とは何だろう?本当にあるのだろうか?早起きできない人のただの言い訳ではないのか?今日はその辺について考えてみようと思う。

 

 我々生き物は遙か昔、太陽がまだ地上に降り注ぐ前に生まれた。海に出て、あるものは太陽の光を浴びて光合成をするようになったが、多くは海の底で暮らしていた。長い時間をかけ水際まで上がり、勇気あるものがひれを手足に変えて陸上に上がった。それでも、まだその頃は海と陸を行ったり来たりしていた。そこからまたゆっくりと時間をかけて、ついには陸上だけで生活できるようになった。

 

 自然光の入らない、時計のない部屋で生活していると起床や就寝のタイミングが約1時間ずつずれていくという実験を聞いたことがあるだろうか?人間の体内リズムを調べる実験だが、なぜかそのリズムは25時間周期だというのものだ。形態学の三木成夫先生は『生命とリズム』の中で、それは遙か悠久の昔から私達生命に刻み込まれた潮汐リズム(潮の満ち引きのリズム)によるものではないかと仰っている。生命の歴史から見れば、太陽の下で暮らしている時間はほんのわずかである。それまでの長い時間、私達生き物は潮の満ち引き、つまりは月の引力による月の周期のリズムで生きていた。その頃のリズムがしっかりと体内に残っているのではないかと。

 生命は、進化の過程で陸を目指し、肺を作り太陽の熱に耐えうる厚い皮や、毛皮を持ち、そうまでして太陽の下での生活を目指した。その中で、その過酷な環境に耐えきれないもの達も少なからずいたようだ。哺乳類から海に戻ったクジラ、爬虫類から海に戻ったウミガメ、鳥類から海に戻ったペンギン、そして、あのシーラカンスは両生類からの出戻りらしい。そして、ずっと海にいて、出戻り達に大きな顔をしているのがサメだと三木先生は仰っている(笑)。新天地を目指すもの、残るもの、戻るもの、それぞれの生き様である。私達人間においても、太陽の下でエネルギッシュに動ける者もいれば、朝はなかなか起き出せず、夜になるとその本領を発揮するような者もいる。その背景には生命の進化の歴史が見え隠れしてくる。これが、朝型、夜型の正体ということだろうか。

 

 運動科学総合研究所所長の高岡英夫先生の著書に『身体意識を鍛える』という本がある。その中で7つの身体意識が紹介されている。

 1)センター………身体の中心を貫く一本のライン

 2)下丹田………落ち着き、安定感が生まれる

 3)中丹田………やる気や情熱の中心となる意識

 4)リバース………人や物にかける放物線のライン

 5)ベスト………上半身の動きがみるみる変わる

 6)裏転子………ハムストリングスを強化する

 7)レーザー………一直線に目標に向かうライン

                   目次より

 一流といわれるスポーツ選手や歌舞伎役者などが、この中の一つ乃至複数を上手に使いこなしていると書かれている。この中のレーザーという意識については「レーザーは、仙骨の中心からまっすぐに前に向かって伸びている意識のラインです。」、「……狩猟生活をしていました。その中で、石や棒切れを投げて獲物を倒すという運動を、長い時間繰り返してきたはずです。」と説明されている。また、仙骨が人間特有の骨であり、こういう身体意識が狩猟生活をしていた頃から発達してきたことがうかがわれる。また、このレーザーはまっすぐに伸びるので、夢や目標、目的に向かって行くのにも重要な身体意識であるとも書かれている。そう、このレーザーこそ陸上を目指したフロンティアの能力であり、人間になってその能力は武器を遠くに飛ばしたり、遙か先の新天地を求めたり、海を渡り、空を飛び、月まで行き、遙か宇宙の果てのことを考えるにまで発展している。

 私は、このレーザーの能力が特に秀でた人達は白人に多いように思っている。大きな船を造り、空飛ぶ飛行機を造り、ロケットを造り、世界が、宇宙がどうなっているのか自らの目で確かめに行った人たち。スポーツにしても、フットボール、ゴルフ、野球、ホッケー、ボーリング、そのボールの軌道や、ゴールへと向かう意識の軌道は正にレーザーである。古代ギリシアにおいて始まったとされるオリンピックの陸上競技においても、走る、跳ぶ、投げるのオンパレードだ。

 人類が生まれ、いくつもの世代を経た後、アフリカを飛び出した白人の祖先は、白夜、つまり昼が長い北へと進出していったのだから、正に朝型(太陽のリズム)の性質を強く持ち合わせていたのだろう。

 

 さてそろそろ夜型の出番である。だが、その前に興味深い考察を前述の三木成夫先生がされているので、ご紹介したいと思う。以下引用

「先日、ひとりの夜行性が一冊の本を携えてやってきた。最初の一頁だけ読めと言う。見ると、難しい著者名だが、そこには、なんと夜行の生理が心にくい活字で綿々と描かれているではないか。〈中略〉

 これをもし、われわれの言葉で表現するとすれば、どうなるだろうーーー夜の眼は地層を垂直に掘り下げ、昼の眼は地表を水平に進む。前者は時間を振り返るが、後者は空間を展望するーーー。」

 このひとりの夜行性の学生が持ってきた本とは誰の何という著作かは分からないままであるが、これは見事な考察だと思う。そして三木先生の表現もまた、心にくいまでにまとめられている。

 そうなのだ。夜型(月のリズム型)は朝型(太陽のリズム型)ほど活発ではない。得意の夜でさえも朝型の行動力には劣るのだ。夜型はどちらかというと引きこもり、活字や液晶画面と向き合っていることの方が得意だ。だが、それは生き物でいうところの出戻り思考なのだろうか?海に戻って光の届かないところで、潮の満ち引きを感じて過ごしたいが故の逃避行動なのだろうか?いや、そうではない。夜型は深く物事を掘り下げるのが得意だ。地層を掘り下げ、化石を探すのかもしれない。卑弥呼の墓を探すのかもしれない。人生について、道徳について、人の心について、深く深く考え、より良い生き方を模索するのかもしれない。夜型は、地面に対して垂直にレーザーを発しているのだ。

 

 遥か昔、海の中から太陽の光を目指して陸に上がるまでの生命は(あるいは鳥類のように空を飛ぶまでか?)、垂直に天へとその目標を目指して進化してきた。そして陸に上がった後(あるいは空に上がった後)、その進化の方向は水平方向に広がっていった。そして“ヒト”となった今、私たちはレーザーとしてその進化の方向性を二手に分けて発展させている。1つは今までよりももっともっと、遥か遠く宇宙の果てまでへもたどり着かんとし、1つは生命の誕生、宇宙の誕生にまで遡り、あるいは、物質を構成する小さな物質のそれをまた構成する小さな物質の世界へとその研究を深めていっている。そう、夜型には夜型の進化の方向性が宿っているのだ。

 

 小さな原始の生命体から連綿と受け継がれてきた進化の過程で獲得したその力、夜型においては物理的な行動力には表れないものの、長い時間をかけて染み込んでいるその潮の満ち引きのリズムの中に更なる未来へと向かっていく力を隠し持っている。朝型においては、そのエネルギーを何倍にも増幅し、新たなフロンティアを日々目指し活発に行動している。その棲み分けと役割分担は、見事な進化と呼べるのではないだろうか。

 

 さて自粛の最中、大きな声では言わないが、夜型は密かにこの生活を満喫している。

私達のいるところ

 遙か昔、生命が誕生した頃。海の水と酸素は猛毒だった。地球は生命の生きられる環境ではなかった。

 海の水は、多くの金属が溶け込んでイオン化し、生命の生きられない猛毒の水だった。酸素は、生命を脅かし、金属まで腐食させる猛毒だった。現代に生きる私達にも酸化は身体に毒であり、病気の元とも言われている。

 そんな環境の中、間欠泉の中で生まれた原始の生命はやがて地上に出て、金属イオンが体内に入り込まない仕組みを作り、酸素に耐える構造になり、光合成に酸素を使うことで多くのエネルギーを得られるようになった。

 

 放出された酸素は、海水の金属イオンを酸化し海を浄化した。空気中の酸素は大気を変え、オゾン層を形成して紫外線を遮り、生命が生きやすい環境を作った。

 生命が酸素を使うことで、地球の環境を大きく変えてしまった。

 

 

 ダーウィンの進化論以後、「生命は環境に適応することで生き残ってきた」と言われてきた。そのことがよく引き合いに出され、「人間が農耕を始めたときから環境破壊が始まった」などと言われる。これは「生命は環境に適応することで生き残ってきた」が、人間は環境に「適応する」のでは無く環境を「操作する」ようになったから環境破壊が始まったという理論だ。

 

 では、「環境破壊」とは何だろう?

 それは、“ヒト”が「生きやすく」なるようにと「環境を操作」したのに、その影響が巡り巡って結果として“ヒト”を「生きにくく」してしまうような環境の変化を引き起こしてしまっているということだろう。大気汚染の問題、海洋汚染の問題、地球温暖化の問題などだ。

 そして、これらは特に“ヒト”が「生きにくい」という状態に近づいているという危機感を問題にしている。

 この危機を、「エコアース」だとか「地球を救う」だとか、「自然を大切に」といった言葉で乗り越えようとしているのは、何だかピントがずれて感じてしまう。

 所詮は“ヒト”の都合なのに、地球や自然といった言葉で美化しようとしているように感じるのは私だけだろうか?

 

 

【環境】①めぐり囲む区域。②四囲の外界。周囲の事物。特に、人間または生物をとりまき、それと相互作用を及ぼし合うものとしてみた外界。

              広辞苑第6版より

 

 環境は外にある

 

 そんな考えが「環境を操作する」ことや、「環境破壊という言葉」、ひいては「地球を救う」や、「自然を大切に」という呼びかけの前提となっているように感じる。

 

 そこでもう一度、最初の生命が酸素を使い始めた頃に話を戻してみよう。生命は猛毒である金属イオンが体内に入り込まない仕組みを作って、酸素に耐えられる構造になって、そして多くのエネルギーを生み出せる酸素を光合成に使うことにした。これらは「適応」であって「操作」ではない。その結果、発生した酸素はオゾン層を作り、海を浄化した。これは「結果」だ。生命はそんなつもりはなかった。たまたま「好結果」だっただけだ。

 『環境』とは私達を含むものだ。私達の外にあるものじゃない。私達が『環境』の一部なのだ。生命は『環境』に適応した。その影響を受け、『環境』も変化した。それがこの現象のより客観的な見方ではないか?

生命が酸素を使うことで、地球の環境は大きく変わった。

 そういう視点で見てみると、環境破壊はこう見えてくる。『環境』は私達“ヒト”の外にあるものと思っていた。私達“ヒト”は『環境』を「操作」できると思った。その結果『環境』から思いもかけない影響を受けてしまっている。

 

 生物は『環境』の一部である。生物の中には私達“ヒト”も含まれている。私達“ヒト”が行った変化によって、全体としての『環境』が変化している。そんな視点が環境破壊へのとるべき行動を教えてくれるように思う。自然も地球もみな『環境』だ。私達はその中で暮らしている。経済活動でさえ『環境』の中で行っている。

 生命の歴史から窺えるのは、私達の生活は必ず何らかの影響を『環境』に与え、『環境』から私達へ必ず何らかの影響が返ってきているということだろう。例えば、やまびこのように。そんな『環境』からの声を感じられるようになることが、私達の未来を明るく美しいものにしてくれると思っている。

 

  

 最後に。 

 フロンガスによって空いたオゾンホールは2050年頃には復元する見通しらしい。

 

 

 

お察しします

 元来、日本人は「察する」ことが上手な民族だと思っている。

むしろ日本は「察する」文化だと言ってしまいたいと、ずっと思ってきた。

 

 聖徳太子の制定した冠位十二階の制度では、身につけている烏帽子や衣の色で冠位を区別していたそうで、向こうから歩いてくる人が自分より上の位なのか下の位なのかすぐに判別出来るようになっていたそうだ。そうして彼我の立場の違いを瞬時に察知し、相応の態度や言葉遣いを用意する。道を譲るべきかどうか、どのような挨拶をすべきか。場合によっては相手の顔色を窺ったりもしただろう。今日は機嫌が良さそうだとか、話しかけない方が良さそうだとか。要は「空気を読んで」いたのである。

 

 しかし、身分社会というのは日本だけに限ったことではない。ヨーロッパにもインドや中国にも、世界各地にあった事なのに、日本人はどうしてこんなにも空気を読むのに長け、相手を尊んだり、自らへりくだったりするようになったのだろうか?

 

 谷崎潤一郎は「陰翳礼賛(いんえいらいさん)」の中で、日本人は高い塀、長い軒で室内に陰を作り、その闇の中に美を見出す、と言っている。西洋の白く、明るい美と対比している。それは、我々日本人の肌の色に起因するのではないか?と。私たちの祖先は、白人を見たことがなくとも、まるで遺伝子の記憶のように浅黒い自分たちの肌を闇の中に隠そうとしていたのではないか?と。

 また、歴史作家の関裕二氏の「古代日本人と朝鮮半島」という本の中には、Y染色体ハプログループのデータ(父方の遺伝子を遡る方法)で日本人がどこからやってきたかを検証する項がある。日本人の約3割がD系統に属するが、現在この系統の遺伝子が残っている地域は日本列島とチベットとインド洋のアンダマン諸島だけだそうだ。中国や朝鮮半島には残っていないらしい。どういうことかというと、ユーラシア大陸では漢民族の圧迫によって、D系統は暮らしていけなくなったと言うのだ。どうやら、このD系統の人々は「追いやられた」と考えるほかはない、と。そして、強い民族の影響を受けにくい海を隔てた島々や高い山の上で生き延びた、と。

 

 つまり、日本人には生来、何か「劣等感」のようなものがあり、それを抱えたまま長い間生きてきたのではないか?そして、その劣等感が「空気を読む」文化を育んできたのではないかと思うのだ。そういうと、何だかとても悲観的に聞こえるかもしれないが、私はそうは思わない。確かに言われてみれば、黒人や白人に比べて体躯は華奢だ。中国人と比べても、なるほど確かにあちらの方がガッシリしている(追いやられたのも分かる気がする)。それでも、その体格の差をものともせず、あるいはその華奢な体躯を活かして、俊敏さやチームワークや独自に生み出した技術や知恵で、世界を翻弄してきた数々の日本人を見てきたではないか。私たち日本人は、もともと持っている劣等感を捨てなかった。捨てずに糧とした。

 谷崎氏はこうも言う「案ずるにわれわれ東洋人は己の置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方ないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、その中に自ずからなる美を発見する。」と。

 慣れ、甘んじる。その現状を受け入れ、そこから見えるもの、そこから出来ることを見出す。

 それが、私たち日本人の得意技、元来持っている粘り強さなのではないだろうか。

 

 そしてもう一つ、「空気を読み」、「人を思い遣る」気持ち。「劣等感」から来る、過剰なまでに相手を、状況を、「察する」気持ち。

「お察しします」こんな時でも、電車に乗って通勤しなければならないんですね。

「お察しします」こんな時でも、お店を開けなければならないんですね。

「お察しします」マスクどこにも売ってないですもんね。お一つ分けて差し上げましょうか?

「お察しします」小さな子供たちだけでお留守番させられないですもんね。

「お察しします」いくらいい天気だからって、よその土地から人が集まってきたら現地の人達も怖いだろうから、海に行くのはやめとこうか。

「お察しします」スーパーの人達だってホントは怖いんだ。あんまり大勢で行かない方がいいんじゃないかな?

「お察しします」ずっとうちにいるとイライラもするし、愚痴も多くなりますよね。

「お察しします」...

 

 みんな我慢してんだから出かけるな。みんな閉めてんだから店開けるな。ずっと我慢してきたからちょっとくらいいいか。マスク売ってないから、してなくてもいいだろ。

これらは...

「察しろよ!!」だ。

 

 本当はみんな知っているのだ。

日本人が「察すること」が得意なことを。

 

 今一度。

「日本人は粘り強く、思い遣りのある人達です。」