お察しします

 元来、日本人は「察する」ことが上手な民族だと思っている。

むしろ日本は「察する」文化だと言ってしまいたいと、ずっと思ってきた。

 

 聖徳太子の制定した冠位十二階の制度では、身につけている烏帽子や衣の色で冠位を区別していたそうで、向こうから歩いてくる人が自分より上の位なのか下の位なのかすぐに判別出来るようになっていたそうだ。そうして彼我の立場の違いを瞬時に察知し、相応の態度や言葉遣いを用意する。道を譲るべきかどうか、どのような挨拶をすべきか。場合によっては相手の顔色を窺ったりもしただろう。今日は機嫌が良さそうだとか、話しかけない方が良さそうだとか。要は「空気を読んで」いたのである。

 

 しかし、身分社会というのは日本だけに限ったことではない。ヨーロッパにもインドや中国にも、世界各地にあった事なのに、日本人はどうしてこんなにも空気を読むのに長け、相手を尊んだり、自らへりくだったりするようになったのだろうか?

 

 谷崎潤一郎は「陰翳礼賛(いんえいらいさん)」の中で、日本人は高い塀、長い軒で室内に陰を作り、その闇の中に美を見出す、と言っている。西洋の白く、明るい美と対比している。それは、我々日本人の肌の色に起因するのではないか?と。私たちの祖先は、白人を見たことがなくとも、まるで遺伝子の記憶のように浅黒い自分たちの肌を闇の中に隠そうとしていたのではないか?と。

 また、歴史作家の関裕二氏の「古代日本人と朝鮮半島」という本の中には、Y染色体ハプログループのデータ(父方の遺伝子を遡る方法)で日本人がどこからやってきたかを検証する項がある。日本人の約3割がD系統に属するが、現在この系統の遺伝子が残っている地域は日本列島とチベットとインド洋のアンダマン諸島だけだそうだ。中国や朝鮮半島には残っていないらしい。どういうことかというと、ユーラシア大陸では漢民族の圧迫によって、D系統は暮らしていけなくなったと言うのだ。どうやら、このD系統の人々は「追いやられた」と考えるほかはない、と。そして、強い民族の影響を受けにくい海を隔てた島々や高い山の上で生き延びた、と。

 

 つまり、日本人には生来、何か「劣等感」のようなものがあり、それを抱えたまま長い間生きてきたのではないか?そして、その劣等感が「空気を読む」文化を育んできたのではないかと思うのだ。そういうと、何だかとても悲観的に聞こえるかもしれないが、私はそうは思わない。確かに言われてみれば、黒人や白人に比べて体躯は華奢だ。中国人と比べても、なるほど確かにあちらの方がガッシリしている(追いやられたのも分かる気がする)。それでも、その体格の差をものともせず、あるいはその華奢な体躯を活かして、俊敏さやチームワークや独自に生み出した技術や知恵で、世界を翻弄してきた数々の日本人を見てきたではないか。私たち日本人は、もともと持っている劣等感を捨てなかった。捨てずに糧とした。

 谷崎氏はこうも言う「案ずるにわれわれ東洋人は己の置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方ないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、その中に自ずからなる美を発見する。」と。

 慣れ、甘んじる。その現状を受け入れ、そこから見えるもの、そこから出来ることを見出す。

 それが、私たち日本人の得意技、元来持っている粘り強さなのではないだろうか。

 

 そしてもう一つ、「空気を読み」、「人を思い遣る」気持ち。「劣等感」から来る、過剰なまでに相手を、状況を、「察する」気持ち。

「お察しします」こんな時でも、電車に乗って通勤しなければならないんですね。

「お察しします」こんな時でも、お店を開けなければならないんですね。

「お察しします」マスクどこにも売ってないですもんね。お一つ分けて差し上げましょうか?

「お察しします」小さな子供たちだけでお留守番させられないですもんね。

「お察しします」いくらいい天気だからって、よその土地から人が集まってきたら現地の人達も怖いだろうから、海に行くのはやめとこうか。

「お察しします」スーパーの人達だってホントは怖いんだ。あんまり大勢で行かない方がいいんじゃないかな?

「お察しします」ずっとうちにいるとイライラもするし、愚痴も多くなりますよね。

「お察しします」...

 

 みんな我慢してんだから出かけるな。みんな閉めてんだから店開けるな。ずっと我慢してきたからちょっとくらいいいか。マスク売ってないから、してなくてもいいだろ。

これらは...

「察しろよ!!」だ。

 

 本当はみんな知っているのだ。

日本人が「察すること」が得意なことを。

 

 今一度。

「日本人は粘り強く、思い遣りのある人達です。」