アララト山の頂上から人類が目指すもの

 バベルの塔の話をご存知だろうか?

 遥か昔、世界を呑み込む大洪水をノアの方舟で生き延びた人類は、もう散り散りになるのをやめて、みんなで一つの土地に住み、素晴らしい国を作り、その地に天まで届く塔を建てようとした。それを神様が嫌い、人々の話す言葉をバラバラの言語に変えてしまった。という話だ。天まで届く塔を建てる、という人の傲慢さを神様は許さなかったからだと言われている。果たしてそうだろうか?

 

 白人による黒人差別

今、“Black Lives Matter”とアメリカのあちこちでこの差別に対するデモが行われている

 

 こんな話がある

「白人は黒人のアルビノである」

動物番組で見たことはないだろうか?色素が抜けて真っ白なキリンやシマウマ、ライオン等の動物を。あれがアルビノだ。

 アフリカで発生したホモサピエンスは、おそらく今のアフリカ人のような肌の色をしていたのだろう。その中に色素の抜けた真っ白い肌を持つ者が突然生まれたとしたら、人々はどんな反応を示しただろう。出生時に殺されてしまったかもしれない。もし生かされたとしても、成長する過程で多くの迫害に遭ったかもしれない。

「黒人のアルビノである白人は、黒人にいじめられていた。」

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「白人の遺伝子はそれを覚えていて、黒人をいじめたくなる」

という話だ。もちろん科学的には立証されていない。

 アフリカで発生した人類の中には、世界各地に向かってアフリカ大陸を飛び出していった人達がたくさんいた。その人達の中に、いじめや迫害を理由にアフリカ大陸を出た人達がいたとしても不思議ではない。それが白人かどうかは別として。

 

 

 白人の歴史は侵略戦争の繰り返しだ。古くは相手は黒人ではなく、白人同士だった。民族の違い、宗教の違い、思想の違い、身分の違い…

 遠くの日本人から見れば、おんなじ白人同士、同じような一神教同士の争いにしか見えなかったりする。

 中国でも何千年も前から国同士の争いが絶えず、幾つもの民族が絶え、幾つもの国が生まれては消えていった。

 朝鮮半島でも似たようなことが起こっている。

世界各地で…と思われがちだ。

 

 日本において、縄文期には争い事が無かったのではないか?という研究がある。弥生期の人骨には矢尻の刺さった死体などが発掘されたりしているが、縄文期の人骨からはそういった形跡が見られない、というのだ。弥生人縄文人より後に中国大陸からやってきた人達だとされている。

 ヨーロッパの大航海時代に発見された南北アメリカ大陸の先住民も比較的穏やかに、暮らしていたのではないだろうか?高度な文明を持っていたところもあるようだが、武器などではヨーロッパ人には到底敵わなかった訳だから、ヨーロッパ人ほど戦争慣れしていなかったとも言えるわけだ。

 

 これはアフリカ大陸を出た時期の違いではないかと私は思っている。比較的早い段階でアフリカ大陸を出た縄文人などの各地の先住民達は争いを好まず、一方でアフリカ大陸内で分派し成長していく間に争いなどが増えていき、そういった気性の人達が後から世界へ出ていったのではないかと思うのだ。実際に、縄文人などの遺伝子グループのほうが、白人などの遺伝子グループより早くアフリカ大陸を出たのは分かっている。

 

 人類の進歩と共に戦争がある、みたいなことが言われたりするが、争いを好む人達と好まない人達がいて、前者の領土拡大と共にその思想や武器の開発技術などが各地に広まっていった為に、後者まで一緒くたにされてしまっているというのが現実ではないかと思うのだ。実際には争いを好まない人達もたくさんいる。戦争を人類全体のせいにされてはたまったものではない、といったところではないだろうか。

 

 長い人類の歴史の中で、世界各地には様々な遺恨が残っている。最初のアルビノ説などの遺伝子の記憶は置いておいたとしても、滅ぼされた民族や、追いやられた民族、奴隷にされていた人達、被害国、戦勝国にも、未だ争っている国々にも、ありとあらゆる遺恨が残っている。「あの人達は嫌い」「あいつらを許すことは出来ない」「私達は忘れない」そういう思いはそう簡単に消せるものではないのだろう。それでも争いを好まない人達は言う。「争いは何も生まない」「過去に縛られては未来に進めない」「人類みな兄弟」と。争いを好まない側の「平和」も、ある種押しつけになることもある。

 

 

 多様性を認める。

 最近では白人のスタイルのいいモデルばかりを集めるファッションショーが開催を中止するニュースもあった。プラスサイズモデルや、ドラァグクイーンなんて人達も現れた。性別には種類が増え、MANとWOMANのほかにLGBTQなどまだまだ増えそうだ。肌の色、宗教、思想、人種、言語、性別、いろいろな違う人達がいることを認めようとする世界の動き。でも…

 「あの人は苦手」「あそこの家のお父さんちょっと怖そう」「あの人はいいけど、あの人は嫌い」こういう好き嫌いや、苦手意識や、印象を持つことを、下手したら差別だと言われかねないのも今の現状だ。ニンジンが嫌いな人もいる。虫が苦手な人もいる。好きや嫌いも多様性ではないのだろうか?日本人からしたら、あのごっつい黒人さん達はやっぱり怖そうに思えてしまうのが自然だと思うし、それは、漁師や土木作業員のお父さんはサラリーマン家庭の子供にとっては怖そうに見えたりするのと同じようなことにも思うのだが。

 

 

 バベルの塔を人間が建てようとしたとき、神様はなぜ人々の言語をバラバラにしたのか?それは天まで届くようなものを作ることの傲慢さを責めたのではないと思う。だったら、ロケットで人工衛星を打ち上げることも、月に行くことも傲慢だし、何より戦争をして人間同士殺し合うことこそ傲慢極まりないことだと思う。

 神様は、人々が単一であろうとしたことを嫌ったんじゃないだろうか?大洪水を免れた人類はごく少数だった。これからは散り散りにならずにみんな一緒に暮らそう、そう思ったのだろう。幸せな国を作り、その象徴としてバベルの塔を作ろうとした。単一であろうとした。その象徴がバベルの塔。神様はそれを私達のことを思って止めさせた。種の保存という意味でも単一性は危険である。またその単一性は、前出のアルビノのような者が生まれたときに排除の方向へと動き易い。だからこそ神様は、また洪水でその国を、その塔を押し流してしまうのではなく、話す言語をバラバラにした。多様性を持たせる為に。単一では危険だと。

 バベルの塔の話は、神話の類である。実話かどうかはもちろん怪しい。だが、そこから読み取るべき教訓はある。この話が示すのは、「人類の傲慢さへの警鐘」ではなく「多様性を持て」なのだと思うのだ。

 

 私達人類にはいろんな人達がいて、いろんな歴史を持ち、いろんな感情を持っている。残念ながら、「嫌い」や「苦手」、「許さない」と言った感情を持っていることも多々ある。でもそれも多様性であり、それぞれの歴史の上に成り立っている感情でもある。その感情を無視して「過去は水に流してみんなで手を取り合って」などと言うのもまた、多様性を認めていないことにならないだろうか?

 “Black Lives Matter”と黒人達は訴える。同時に、ある白人が「黒人は嫌いだ」と思う。どちらも否定はできない。個人の思いだから。どちらの思いもまた多様性だ。けれど、「黒人は嫌いだ」と思う警官が黒人を殺してはいけない。それが白人に限らず、どんな人種や思想の持ち主でも、嫌いだから殺すはダメだ。もちろん黒人が白人を殺すのもダメだ。結局はそういう単純なことのように思う。

 誰を嫌いでなくなるか、苦手でなくなるか、いつか許せる日が来るかは、個々による。何かの制度が設けられたり、誰かが罰せられたりすることで、みんなが過去を洗い流せる訳じゃない。みんなが許せる訳じゃない。最後は個人個人なのだと思う。白人が…。黒人が…。そう言っている間は黒人は黒人で単一化し、白人は白人で単一化してしまう。多様性が消えてしまうのだ。

 

 多様性とは、一人一人の違いのこと。人種、宗教、言語、性別、肌の色、思想などの枠組みに捉われずに個人個人を認め合うこと。

多様性を認める社会

とは、もっともっと深く緻密で、そしておおらかな社会なのだろう

 

 フレーゲルのバベルの塔を眺めながら、そんなことを思っている。