私達のいるところ

 遙か昔、生命が誕生した頃。海の水と酸素は猛毒だった。地球は生命の生きられる環境ではなかった。

 海の水は、多くの金属が溶け込んでイオン化し、生命の生きられない猛毒の水だった。酸素は、生命を脅かし、金属まで腐食させる猛毒だった。現代に生きる私達にも酸化は身体に毒であり、病気の元とも言われている。

 そんな環境の中、間欠泉の中で生まれた原始の生命はやがて地上に出て、金属イオンが体内に入り込まない仕組みを作り、酸素に耐える構造になり、光合成に酸素を使うことで多くのエネルギーを得られるようになった。

 

 放出された酸素は、海水の金属イオンを酸化し海を浄化した。空気中の酸素は大気を変え、オゾン層を形成して紫外線を遮り、生命が生きやすい環境を作った。

 生命が酸素を使うことで、地球の環境を大きく変えてしまった。

 

 

 ダーウィンの進化論以後、「生命は環境に適応することで生き残ってきた」と言われてきた。そのことがよく引き合いに出され、「人間が農耕を始めたときから環境破壊が始まった」などと言われる。これは「生命は環境に適応することで生き残ってきた」が、人間は環境に「適応する」のでは無く環境を「操作する」ようになったから環境破壊が始まったという理論だ。

 

 では、「環境破壊」とは何だろう?

 それは、“ヒト”が「生きやすく」なるようにと「環境を操作」したのに、その影響が巡り巡って結果として“ヒト”を「生きにくく」してしまうような環境の変化を引き起こしてしまっているということだろう。大気汚染の問題、海洋汚染の問題、地球温暖化の問題などだ。

 そして、これらは特に“ヒト”が「生きにくい」という状態に近づいているという危機感を問題にしている。

 この危機を、「エコアース」だとか「地球を救う」だとか、「自然を大切に」といった言葉で乗り越えようとしているのは、何だかピントがずれて感じてしまう。

 所詮は“ヒト”の都合なのに、地球や自然といった言葉で美化しようとしているように感じるのは私だけだろうか?

 

 

【環境】①めぐり囲む区域。②四囲の外界。周囲の事物。特に、人間または生物をとりまき、それと相互作用を及ぼし合うものとしてみた外界。

              広辞苑第6版より

 

 環境は外にある

 

 そんな考えが「環境を操作する」ことや、「環境破壊という言葉」、ひいては「地球を救う」や、「自然を大切に」という呼びかけの前提となっているように感じる。

 

 そこでもう一度、最初の生命が酸素を使い始めた頃に話を戻してみよう。生命は猛毒である金属イオンが体内に入り込まない仕組みを作って、酸素に耐えられる構造になって、そして多くのエネルギーを生み出せる酸素を光合成に使うことにした。これらは「適応」であって「操作」ではない。その結果、発生した酸素はオゾン層を作り、海を浄化した。これは「結果」だ。生命はそんなつもりはなかった。たまたま「好結果」だっただけだ。

 『環境』とは私達を含むものだ。私達の外にあるものじゃない。私達が『環境』の一部なのだ。生命は『環境』に適応した。その影響を受け、『環境』も変化した。それがこの現象のより客観的な見方ではないか?

生命が酸素を使うことで、地球の環境は大きく変わった。

 そういう視点で見てみると、環境破壊はこう見えてくる。『環境』は私達“ヒト”の外にあるものと思っていた。私達“ヒト”は『環境』を「操作」できると思った。その結果『環境』から思いもかけない影響を受けてしまっている。

 

 生物は『環境』の一部である。生物の中には私達“ヒト”も含まれている。私達“ヒト”が行った変化によって、全体としての『環境』が変化している。そんな視点が環境破壊へのとるべき行動を教えてくれるように思う。自然も地球もみな『環境』だ。私達はその中で暮らしている。経済活動でさえ『環境』の中で行っている。

 生命の歴史から窺えるのは、私達の生活は必ず何らかの影響を『環境』に与え、『環境』から私達へ必ず何らかの影響が返ってきているということだろう。例えば、やまびこのように。そんな『環境』からの声を感じられるようになることが、私達の未来を明るく美しいものにしてくれると思っている。

 

  

 最後に。 

 フロンガスによって空いたオゾンホールは2050年頃には復元する見通しらしい。